鳥海山の山頂論争

 

山上に薬師の本殿があったことを示す鳥海山噴火以前の古絵図

(土田喜八郎氏蔵)

 
 鳥海山は、五穀豊穣の神として古くから大物忌神が祭られていた。その後鳥海山麓の各地より相前後して修験道が発達した。即ち、矢島口に発達したのが、当山派の真言(逆峰)であり、南側の庄内地方に発達したのが本山派の天台(順峰)であった。
 この二派の宗教上の争いが、ついには鳥海山頂の争奪まで発展してしまった。特に江戸時代に入って後、この争いがますますはげしくなり、これに領主の領土的な支配権をめぐる問題ともからんで、一層の激しさ、複雑さを加えるにいたった。ついには、蕨岡側がひとり鳥海山頂を独占し、その結果、公儀の議決を得て後にはじめて矢島七合目付近をもって、秋田、山形両県の境とするという裁決となり、地理上実に不自然きわまる結果となって終った。
 鳥海山大物忌の祭祀は、修験道の導入によって神仏混交に変革され、その大物忌をまつる社殿の位置と建立をめぐって、矢島と蕨岡との対立となったのである。
 蕨岡は、山上の本社を独占し、鳥海山大権現と称して、薬師如来を安置し、薬師堂を建立し、順逆ニ峰の法式をもって祭祀を施行していたという。矢島は、薬師堂は山上にあって由利郡内のものであり、古くより両者によって祭られていたものであり、ひとり蕨岡の独占することは無法であることを強く主張していた。
  たまたま元禄14年(1701)山上の本社造り替えにあたって、この論争は一段と激しさを加え、更に鳥海山の峰境が大きな問題となった。ここにおいてやしま逆峰の学頭福王寺寺、先達法教院、衆徒一明院、万蔵院が連署して蕨岡衆徒を相手として山上の社殿支配権と鳥海山の峰境に関して三宝院鳳閣寺に対して訴訟をおこした。十月鳳閣寺よりは、山上の権現堂支配に関しては、蕨岡方が支配すべき旨を申し渡されたが、それを不満とした矢島側は、元禄16年9月23日、再度の裁決を受けようと提訴することにした。それに対し鳳閣寺は、法門の裁決によっては解決しがたい問題であるとして、本訴の経過に付帯文書を添付して、幕府の寺社奉行に裁決方を出願するにいたった。
 時の幕府の奉行本多弾正は、事の重大を察して「峰境は不明であるが、三代実録、延喜式によって、大物忌は、飽海郡にあること明らかであるから、棟札には飽海郡と書くのが適当である。ただし、峰境は不問とする。」との裁決があった。
 しかし、この不問と裁決された鳥海山の境界は、矢島、庄内両藩にとっては真に重大な問題であった。
 この奉行所のいう古文献のよりどころとは、三代実録中の一節「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上巌石壁立人跡稀到。」による。この文を蕨岡側は「大物忌神社は飽海郡の山上に在り」と読み、古くから大物忌神社は、飽海郡蕨岡側にあったとの主張をくりかえした。これはあきらかに誤読であって「大物忌神社は飽海郡に在り山上巌石壁立し・・・・。」と読むのが正しい。矢島側は「山上の薬師堂は由利郡の内にあり。」と主張し続けたのも故ありといわなければならない。この論争はついに両者の政治関係まで発展し、矢島藩においては、事国境に関すること故に黙視することできず、方法を変えて矢島百姓の名をもって幕府の評定所へ訴訟を起こしたのであった。
 その理由とするところは「国郡の境界は、分水嶺をもって定めるを本則とする。鳥海山頂瑠璃之壷より流れる水は、由利郡の田用水である。」とし、その他12条の理由を付し、鳥海山薬師寺は、由利郡の同山八分目蛇の口にありと主張した。 
 これに対して幕府は、実地に見聞して、裁決する方法をとり、宝永元年(1704)6月19日、大目付杉山安兵衛、絵図方町野惣右衛門等一行42名の検使を現地につかわして処理させることにした。これ等の一行は、まず「起し立ての絵図」と山の「張抜模型」をつくり、それをもとにしてあらかじめ評定所の白洲において調査し、更に実地に登山し調査することにした。7月1日、庄内側は小滝口より、7月8日、矢島側は、矢島口より登山して実地に調査を施行した。この調査は、40数人のご公儀の役人に加うるに両藩の関係者という実に未聞の大がかりなものであった。このために双方ともその接待饗応等のそれぞれ気を配ったが、検使の役人はいっさいこれを受けなかったとも伝えられている。
 この判決の結果は、9月22日「笙野岳腰より稲村岳の八分にわたり、東は女郎岳の腰までをもって両郡の境界と定む。由利郡の山腹七合目より以南は飽海郡なり。」の大判決となった。その結果、鳥海山頂は、自然の地形によらない県境、即ち矢島口七合目付近に県境の線が引かれる結果となり、以来鳥海山頂は山形県のものとなってしまったのである。
 この実地調査の焦点は、噴火によって焼失してしまったと考えられる薬師寺の所在位置にあった。蕨岡の主張する地点を発掘の結果、社殿焼失の跡が判明し、それを基として判決が下されたという。伝え残るところによれば、検使等の調査を予測した庄内側のものがひそかに彼等が主張する地点に木灰等を埋めたとも言われている。とにかくこの長い間続いた論争もついに無念にも矢島側の敗訴となって終った。
 当時矢島は、4代藩主正親の頃であった。相手が一万石にみたない小名に対して相手は庄内藩14万石の大名である。いかにご公儀の裁決を得ても初めから勝目のない訴訟であったと考えられるが、これをあえて実施したところに、当時の矢島の人達の深い事情があり、又、蕨岡の許すべからざる態度に決起した正義感があったればこそと考えれれよう。 
 後日物語となるが、当時矢島藩において、交渉の中心となったのは金子某という年若い家老であった。彼は、庄内藩の策謀によって敗れたと知った時、憤然と職を辞して庄内におもむき、庄内藩家老某の門前において切腹して相はてたとも伝えられている。
 又、矢島の修験の人達の血のにじむような苦心物語なども、今なお悲しくも語り残されている。
                                          「矢島の歴史」より

 

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