鳥海山の噴火

 

昭和49年(1974)3月1日153年ぶりに噴煙を上げる

 

 鳥海山は、平安時代百余年にわたる長い間、噴火を続けてきたが、この時代の末頃からは、ほとんど休止の状態に入っていた。その後江戸時代に入ってから元文5年(1740)の九月に「少し噴煙立ちのぼる。」との記録がある。その翌寛保元年(1741)に爆発が起こり、仙北、湯沢方面まで降灰があったとあるから、再度の火山活動がこの頃にはじまったと考えられる。その後、明和元年(1764)には又も大きな噴火があったとみえ、この年に噴出した峰を「明和岳」と名づけたとの記録が残されている。その後、寛政4年(1792)にいたる約30年間は無事であったが、この年大噴火を起し、山麓の人達が驚いて逃げ去ったとある。これは、享和の大噴火の前兆とも考えられよう。
 享和元年(1801)2月13日に大噴火を起こしたが、この時の記録によれば、「この日の夜、雷音の如き音響あり、雪中なれば、山の姿も見えず。皆不思議の思いをなしたるに、荒沢通り、熊の子沢、濁川辺りにまで降灰著しく、雪ふみぐつの丈位凡そ2,3寸程積れり。」とあり、又「3月15日、夜鳴りはじめ、笹子通り仙北まで灰降る。16日夕方堰川上の水一面に灰降り、その色ねずみ色にて、それより藍色に変り、その水村里に流れ入り、人馬なといたしかたなく、清水を選んで使用す。」とある。
 又、6月15日の夜には「又もや鳴動あり、この時の降灰は上笹子、下笹子、仙道辺りにまで甚だしく、川の水硫黄の香気甚だしく、23日にいたり、藍色の水と変り馬の飲料水となること不可能、特に大久保、興屋辺りは甚だしく鶴田、鐙ケ平辺りにまでその被害が及ぶ。」と記されてある。
 同年7月4日に、またもや大墳動を続け、黒煙の噴出甚だしく、降灰じつに多く日中も暗闇であった。この時祓川にいた修験の別当は驚いて逃げ下ったが、日中猿倉あたりまで提灯をつけて山を下ったとうそのような事実があり、7月6日には「午前雷の如く、大筒の如く、その鳴ること半時余り、煙立ちのぼり、恐ろしきこと言わん方なし。」と記録されている。
 8月5日には最大の噴火があったとみえ、次の記録が残されてある。「又もや鳴動を起こし、音響甚だしく、天地振動す。万雷一時に落つるが如く、地動して大噴火をはじむ。火玉飛散して、雷火稲妻の如くにみえ、その炎は、家屋数百軒を積みあげ、一時に炎上させるが如き状態なり。」と書かれてあるが、その噴炎のいかにものすごいものであったか、この文よりも容易に推察されよう。面白いことには、この年「灰水は田畑に害なく、苗代に煙灰入りて、虫気もなく、善き作をとりたり。」とある。天地の怒りにおののいた農民も、この時ばかりは意外な豊作に喜んだ素朴な心が、この文からくみとることができよう。
 その後、数回小さな噴火があって、年末に一旦やんだようである。現在鳥海山の新山は一名「享和岳」と称されているが、これはこの年に噴出した峰にこの年の年号を付してかく名づけたものである。
 文化元年(1804)6月4日の夜九ツ時、鳥海山が大鳴動を起こし、七日間も鳴り続けた。この日、噴火とともに大地震が発生し、二日間にわたって震動した。この地震は、鳥海山の噴火に伴う地震と考えられるが、この時、山麓一帯にわたって広く大きな被害をあたえた。由利郡内における被害は「つぶれ家200戸、死者182名。」とあり、又、別の記録によれば「矢島藩御領分仁賀保にては、つぶれ家12軒、半つぶれ13軒、濁川村にては、つぶれ家5軒、半つぶれ2軒、熊の子沢につぶれ家1軒、長保田に半つぶれ1軒、百宅村に半つぶれ1軒、仁賀保御分家御領分にはけが人多数、死馬27頭。」と記してある。これを象潟地震とよんでいるが、今まで九十九島、八十八潟あって、その風景松島とならび称された名勝の地象潟が、一夜にして滄海変じて干潟となってしまったのもこの時のことであった。
 その後、数回地震と噴火があったと思われるが、記録には残されていない。ただ文政4年(1821)4月22日に噴火があったとみえ「新山の東方の両側破裂し、白灰雲霞の如く立ち上り、上郷の田堰に灰水を注ぎ、馬糧の草を害し、そのためにせき河の魚類は死滅し、馬匹は疫病にかかる。」と記されてある。

「矢島の歴史」より

 
 昭和49年(1974)3月1日山頂カルデラ内の新山及び荒神ケ岳周辺で153年ぶりの噴火活動がおこった。前年の12月頃から小さな地震が記録され、3月3日には直径約50mの新火口が新山の東ふもとに発見された。3月6日には融雪による2kmの泥流堆積物も発見された。3月中旬にはカルデラ壁東側からも噴火が起こり、4月7日には荒神ケ岳付近からも噴気が始まり、4月24日には爆発的な噴火となり4月30日まで続き、荒神ケ岳付近から3kmの泥流が流下した。
 
 1999年8月26日の朝、鳥海山を調査中の秋田大学林先生のグループが、山頂(大物忌神社の東100m付近)で小規模の墳泥跡を発見しております。

林先生の「鳥海山1999年8月の小規模墳泥」ページへl

トップページに戻る