6 政教社
 
 民友社に遅れること一年余、明治二十一年四月に政教社が結成されました。そして、同時に雑誌『日本人』が発刊されました。当時第一高等中学(東京大学予備門の後称)の生徒だった堺利彦が、『国民之友』と『日本人』は学生必読の書であったといったように、これら二冊の雑誌は二十年代のジャーナリズムを二分することになります。
 
 政教社の結成に参画したのは、杉浦重剛を中心とした東京英語学校グループと井上円了の哲学館グループの総勢十名あまりの人たちでした。
 
 ここに東京英語学校というのは、英吉利法律学校(のちの中央大学)の初代校長となった増島六一郎の創立したもので、杉浦が引き継ぎ、のちに日本中学校と名前を変えて、府下では有数の東京大学進学校に数えられる学校となったもの。蘇峰の入学した東京英語学校とはちがうものです。また、哲学館というのは、東京大学で哲学を学んだ井上円了が、より簡便に哲学を学べるようにと設立したもので、現在の東洋大学の起源となったもの。
 
 また、見方を変えれば、これらの人たちは三宅雪嶺など東京大学出身者と、志賀重昂など札幌農学校出身者の混成グループでもありました。いずれにしても、注意しておいてよいことは、政教社=『日本人』が「国粋主義」を唱えたとはいいながら、それは後代の、おのれあることのみを知って他あることを知らない狂ナショナリズムとは明らかにちがっていたことです。彼らは、当時望みうる最高の洋学徒でした。西洋について決して無知ではありませんでした。彼らが受けた教育は、東京大学にしても札幌農学校にしても、外国人が英語を英語の教科書を使って教えるというものでした。
それだけに、彼らの「国粋主義」には、西洋と日本の関係への真摯な研究と反省があったことは確かなことです。
 
 「国粋主義」についてはのちに触れることにして、後世、蘇峰の『国民之友』か雪嶺の『日本人』かといわれたように、政教社同人中もっとも重きをなしたのは三宅雪嶺でした。その雪嶺が内藤湖南を見い出し、湖南の友人の呂泣が次いで見い出されて政教社に加わった、これがまずは順当な推論とされているところです。
 
 湖南が雪嶺に認められるきっかけになったのは、哲学館グループの大内青巒の主宰す
る雑誌記者という関係からでした。湖南はこのころしきりと記事を書いてだんだんと文名を高くしていたころです。青巒の紹介で湖南は雪嶺と会い、雪嶺は湖南を認めたのです。
 
 湖南が政教社に加わったのは明治二十三年十二月、そして旬日も経たぬうちに湖南は
呂泣を雪嶺に紹介したようです。この辺の事情を私たちは雪嶺の回想から知ることができます。
 
 内藤君が雑誌『日本人』の編輯に携はり、人の口述を筆記するにも、自ら執筆するにも自由に出来る上、郷里の友人を連れて来り、編輯が殆んど秋田県揃ひになった。初めに畑山芳三氏を連れて来た。これは郷里の師範学校で同学とかいふことであった。自身の文は呂泣と号して執筆した。
 
 上記の引用文中に「秋田県揃ひになった」とあるのは、呂泣以外にも湖南が中村木公、後藤妄言など主に秋田師範の同級生を政教社に呼び込んだことを示しています。
かくして、政教社の第二世代はいっときズーズー弁を話す連中で占められたことがありました。
 
 しかし、湖南がどれほど雪嶺ら政教社同人の信頼を得ていたとしても、秋田師範の同級生をなんにんも呼び込むというのは不自然です。さらに、もうひとつあいまいなことは、『日本人』発刊の資金の問題。だれがお金を出したのかということです。雪嶺は当時二十八歳。東大の準教授だったが、例の明治十九年の行財政大改革で役人を辞めている。とても雑誌を発行できる自己資金があったとは思えません。これは他の同人についても然りです。
 
 ひるがえって、蘇峰の方の事情をみると、まずもって徳富家は熊本の豪農であった。それが、田畑を売り払って上京したのだからお金はありました。加えて、群馬県安中の名望家で姉の夫、湯浅治郎がスポンサーになり、田口卯吉が応援したのだから、『国民之友』が発刊される環境は整っていました。
 
 こう考えると、『日本人』の発刊についても雪嶺たちの裏にだれかスポンサーになった人物を探ることができるかも知れません。これについて、思い当たる人物がひとりいます。高橋健三です。のちに内閣書記官長となって第二次松方内閣(大隈重信が蔵相であったことから松隈内閣と呼ばれる)誕生に活躍した人です。高橋自身は江戸の生まれでしたが、祖先が矢島の人でした。高橋は祖先を尋ねて本荘由利地方を訪れたことがあり、矢島にも足を伸ばしています。彼が政教社のバックボーンであったとしたら、湖南や呂泣をはじめ、秋田県人を政教社に抱え込んだ事情も見えてきます。
  
 高橋健三については、のちに項を設けて説くとして、まずは政教社の面立ちたる面々を紹介しましょうか。その理由は彼らの気分というものが、多かれ少なかれ呂泣や湖南、そして政教社の人々に共通したものだったからです。はじめは呂泣を世に送り出した人ともいうべき三宅雪嶺です。
 

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